第一章 古代メソポタミア
第一節 文明以前の人間
知能人の出現
およそ十二万年前から一万年前まで、地質第四紀前半の「洪積世」の「第四氷河期」が続いていましたが、約一万年前、すなわち、紀元前約八千年ころから地質第四紀後半の「沖積世」に変り、地球は温暖化していきました。そして、これとともに、すでに第四氷河紀から発生していた「ホモサピエンス(知能人)」が、モンゴロイド(東ユーラシア)・ネグロイド(アフリカ)・コーカソイド(西ユーラシア)の三大人種を中心として急速に世界中に拡大していきました。また、知能人には、この他、オストラロイド(オセアニア)が存在していました。
およそ六十万年前からが地質第四紀であり、これとともに道具を使用する「原人」が出現し、発達してきました。しかし、地質第四紀前半の「洪積世」は、氷河紀を繰り返す寒冷な時代であり、おそらく原人の活動もかなり制限され、実際、その進化もひどく緩慢なものでしかありませんでした。これに対し、「沖積世」になると、温暖な気候となって、新たに出現した知能人の活動は爆発的に増大したと考えられます。この意味で、地球的時間観からすれば、現代につらなる知能人は、たかだか一万年間しかなく、それもずっと躁病的状況にあると言えるでしょう。
しかし、古代において、個々の生活は単純な習慣であり、そのような単純な生活習慣で適応可能な世界もまた、単純なものに限定されていました。したがって、古代人の世界観も限定的なものとならざるをえませんでした。そして、この限定的な世界観を越える物事は、すべて驚異であり、畏敬の対象となりました。このため、そのような驚異的な物事そのものや、それを支配する主体が、さまざまな〈神〉として、限定的な世界観の周壁に投影的に想像され、畏敬されることになりました。
生活が単純で、世界が限定されているということは、質的な問題であって、空間的な問題ではありません。同様の単純な生活習慣で生活可能であれば、広範囲にも移動したでしょう。しかし、いかに空間的に近くても、それまでの単純な生活習慣を変えなければ適応できない環境には好んで移動しようとはしなかったでしょう。[合理的に考えればあまり好環境ではないところにでも村落は存続する]という事実は、[人間が無垢な合理的存在ではなく頑迷な歴史的存在である]ということを暗示していると思われます。
人間が限定的な世界観しか持たず、これを越える驚異的な物事そのものやそれを支配する主体を疑心暗鬼のように投影的に想像する、ということは、現代においても変ってはいません。とくに、具体的主体(個人や機関)の具体的証拠が特定できない場合には、そこにまさしく情報不足を露呈しているのであり、このような一方的誤解ではないか、反省してみることが必要でしょう。さもないと、まさにその一方的誤解こそが最初の原因となって、自分が危惧していたものそのものに相手を硬化させてしまう、ということが生じがちだからです。
とくに自然の再生産出は、古代人の生活にとってもっとも重大な問題でありながら、採取消費しかしない古代人からは想像を越える物事でした。かろうじて人間が想像しえたのは、[自然の再生産出が日や雨や川、季節によるらしい]ということくらいでした。また、自然の再生産出が人間自身の再生産出からのアナロジー(比喩)から理解され、[自然は母性的な存在、すなわち、〈グレートマザー〉であるらしい]とも考えられました。このため、自然の再生産出に対する畏敬と待望は、自然の再生産出を支配する主体として想像された日・雨・川や季節を神とする崇拝や、再生産出する自然の存在的性質として理解された〈グレートマザー〉を神とする崇拝となり、これらの神に豊饒が祈願されました。後者においては、母性的� ��特徴の中でもさらに臀部や乳房がその再生産出の源泉と想像されたため、グレートマザーは、臀部や乳房を極端に誇張した母神像として偶像化されることが少なくありませんでした。
農耕文化の成立
すでに洪積世末期の前九千年紀に牧畜が始められ、ついで沖積世初期の前八千年紀に農耕が始められました。知能人である彼らは、それまでの狩猟採取生活に加えて、さまざまな家畜を飼い、イモなどの穀物を作って、一所に定住するようになったのです。
千年紀は、世紀の十倍の単位であり、たとえば、前八千年紀は、年号的で言えば、紀元前八〇〇〇年から七〇〇一年までを指します。
イモは、余りをほっておくだけでも、かってに根が出て増えるものであり、農耕は、ごく自然に始ったと考えられます。そして、[家畜を飼育するとより大きな収穫を獲得できる]という発見のアナロジー(比喩)から、「大地も飼育するとより大きな収穫を獲得することができるのではないか」と想像されたのでしょう。
オリエントにおいては、トルコからイランにかけて、長大な高山帯があります。そして、地球の温暖化とともに、冬雨の豊かなその南側の各地において、前九千年紀から牧畜が、前八千年紀から農耕が始められました。とくにこの地域においては、ムギなどの穀物の農耕に特徴がありました。他の地域の農耕のイモなどの根菜とは違って、ムギなどの穀物は、種播は毎年、収穫は一度、そのうえ、収拾・脱穀・加熱しなければ食べられない、という面倒なものです。畑地の耕作や穀物の保存のために、定住も発達したことでしょう。
オリエントでは、トルコ〜イラン高山帯において、トルコのチャタルヒュユク、イラクのジャルモ、イランのアリコシュなどに古代農業遺跡が発見されています。また、トルコ〜イラン高山帯からは外れていますが、ヨルダン川谷のジェリコ(イェリコ)でも、同時期の古代農業遺跡が発見されています。
ムギそのものは、一年草で、たいへん弱々しいものですが、極端な乾燥期があって多年草が存続できない場所では、地中のムギの種子だけが存続し、降雨期に一斉に発芽し、自然に群生することになります。したがって、このようなムギ自生地域に、人々が定住し、他の草木を除去し、農耕に移行するのも、自然なことだったでしょう。
しかし、前七千年紀からオリエントの乾燥がさらに進行したため、農耕民たちは、北のティグリス河(「急河」)と南のユーフラテス河(「大河」)に挟まれた肥沃なメソポタミアに下りて、その中央に農耕村落を作って移り住むようになっていきます。ただし、当時、今日の両河下流はまだまったくの海でしたので、そこがペルシア湾岸にあたります。また、メソポタミアは、もとより沖積平野で高低さがないために、熱帯性低気圧で冬雨がトルコ〜イラン高山帯に降ると、雨水がこの両河に集中してすぐに洪水となり、河川の流れも変ってしまいます。このため、村落も河川の移動に合せて盛衰することになりました。そして、前五千年期になると、このようなメソポタミアの農耕法がナイル川流域のエジプトにも伝播し、ここに� ��農耕文化が成立していきました。
メソポタミアは、ギリシア語で「河の間」を意味します。アラビア地方の乾燥の結果、西アジアの大半が砂漠と化してしまったため、メソポタミア=両河流域〜カナン=ヨルダン川流域〜エジプト=ナイル河流域が緑の地帯として残り、後に「肥沃な三日月(ファータイル=クレッセント)」と名づけられました。
しかし、他人と隔絶した閉鎖的な山間においてならともかく、開放的な平野においては、ある場所の収穫が農耕による自分のものであることを他人に立証し、確保することはきわめて困難です。農耕を知らない人々からすれば、実っている所から採って何が悪い、ということになるでしょう。それどころか、農耕を知っていても、場合によっては他人の農地や倉庫から掠奪する方が楽かもしれません。このような状況にあって、人々は、村落として、その農地と収穫の権利を相互承認し、共同保障することになったと思われます。そして、この村落を基礎として、潅漑などの協力作業や技術普及が行われ、生産性も向上していったと思われます。
このような農耕の発展とともに、〈グレートマザー〉崇拝は、〈地母神〉崇拝へと展開していきます。すなわち、再生産出する自然は大地に象徴されたのであり、その大地は再生産出する母であると理解されたのです。このような地母神は、グレートマザー同様の臀部や乳房を極端に誇張した母神像として崇拝されたほか、その地方の地形の根本となる大山そのものとして崇拝されることも多く、「山の神」ともされました。また、農耕とともに、[自然の再生産出には種子の植え付けが必要である]ということが理解されるようになり、日・雨・川や季節、そして臀部や乳房と並んで、今度はさらに男根や性交が自然の再生産出の源泉の象徴とされることもありました。そして、地母神の夫として植物神などが創出され、春に両者の� ��婚式として豊饒を祈願する祭礼が開催されるようにもなりました。
地母神は、図象では二匹の野獣(獅子など)を左右対称に従えた形式などで描かれることが少なくありません。異なる地域や異なる時代において、たとえ神々の名称は変更されても、このような図象の特徴は継承されるため、信仰の系統を特定するのにたいへん有効です。
シュメール文化の成立
誰が川のプレートの戦いに勝った
先述のように、メソポタミアには洪水が少なくありませんでしたが、とくに前四千年紀前半に大洪水が襲って、地帯の全域を洗い流し、人々の生活を滅し去ってしまいました。そして、その後、新たに「シュメール人」と呼ばれる人々がこの肥沃なメソポタミアに移り住み、牧畜農耕生活を始めます。彼らは、個別に小さな村落を形成し、対立しましたが、共通のシュメール語を話していました。一方、メソポタミアの西北のアラム地方(現シリア)の荒野には、「セム人」と呼ばれる人種が、部族を単位に遊牧生活をするようになり、ときにはシュメール人の村落を襲撃して掠奪するようになりました。このため、シュメール人の村落は、防衛のための周壁を持つようになっていき、前四千年期後半には、早くもウルクなどが都市と� ��り、裕福な商人も活躍するようになっていきます。そして、このような都市の繁栄とともに、シュメール人の都市に住み込むセム人の部族や個人も増加していきました。
ユダヤ教の暦では、神が天地を創造した年は、ちょうど前三七六一年になりますが、シュメール文明が起ったのもちょうどこのころのようです。ただし、「シュメール人」とは、たんにシュメール地方(メソポタミア中下流)に住んでいた人というだけのことであり、民族系統も不明です。その独立村落国家からして、もしかすると、もとより単一種族ではなく、さまざまな遊牧民の部族がそれぞれに定住して農耕民となったものにすぎないのかもしれません。一方、セム人は、もともとは褐色皮膚・黒色波髪・直状狭鼻を特徴とする人種でしたが、その後、アラム地方に下りてきた山岳諸民族などの周辺人種との混血も進み、また、セム人も、オリエント全域に拡散して、地元人種と混血していきます。しかし、その生活は遊牧� ��中心とし、その言語はセム語系であり、民族としての共通性を維持していました。
〈人種〉とは血統的なものであり、〈民族〉とは文化的なものです。「××人」という言い方は、血統的人種を表わす場合と、文化的民族を表わす場合とがあるので、注意が必要です。また、同じ文化の民族でも、居住している地方によって、名称が異なることも少なくありません。
シュメール文化は、まさに土の文化でした。すなわち、彼らは、彼らは日干レンガを発明し、これによって家屋や建物を作ったのです。そして、さまざまな政治的・経済的記録も、共通のシュメール語の楔形文字で粘土板に残されるようになっていきました。また、沖積平野の柔らかな土は、掘ったり耕したりするにも鉄器を必要とはせず、用水路による潅漑や家畜牛による犁耕によって、驚異的な量の穀物の収穫が可能でした。また、沖積のために緩慢となった河や遠浅となった海においては、多様な魚類の捕獲が可能でした。くわえて、この柔らかな平野は、容易に運河や道路を建設することもできたのです。こうして、このメソポタミアの豊富な穀物や魚類の余剰は、シュメール文化経済圏と周辺地域とのを交易を成立させ、大� ��に繁栄を享受するようになっていきます。
〈文化〉と〈文明〉も区別して使われます。欧米語では、〈文化〉はカルチャーであり、教養性を意味しているのに対し、〈文明〉はシヴィリゼイションであり、市民化を意味しています。つまり、日本語のニュアンスとは違って、〈文化〉は、精神的に技術や知識が確立されていることを意味するのに対し、〈文明〉は、制度的に都市や地位が確立されていることを意味しているのです。したがって、一つの文化の中に多くの文明が存在することも、一つの文明の中に多くの文化が存在することもありえます。また、一般に、ドイツは〈文化〉を重視し、フランスは〈文明〉を重視すると言われています。
シュメール文化は土の文化であったとしましたが、ただし、彼らは粗製土器が中心で、すでに周辺地域で見られる彩色土器がありませんでした。これは、技術が稚拙だったからか、たんにケチだったからか、わかりません。また、日干レンガは、木製型枠を用いた単位規格によって、整然とした巨大建築も可能となり、また、天然瀝青(アスファルト)を用いた防水処理によって、堤防などの潅漑施設も可能となりました。しかし、日干レンガは、手入を怠ると、数年で瓦礫となってしまいます。そして、次の時代の家屋は、この瓦礫の上に建てられていくことになります。こうして、シュメールの都市は、何層にも重積して「テル(遺丘)」と呼ばれる台地を形成していくことになります。
潅漑や犁耕によって驚異的な収穫を誇った穀物、とくに小麦は、家畜の飼育に用いるほどの余剰があり、シュメール人は、ビールを好んで作って飲んだことが知られています。
シュメール文化は、精神的には遊牧民の文化と農耕民の文化の混ざり合ったものであり、宗教的にも、多様な自然神の〈シンクレティズム(諸教混淆)〉が見られます。人々においては、[疫病や災害をもたらす悪魔などがそこら中に満ちている]と信じられており、悪魔払いもしばしば行われました。また、シュメールの中心都市ウルクの守護神とされた激情女神イナンナ(ニン=アンナ(天后))は、ウルク市だけでなく、広く信仰を集めました。イナンナ崇拝は、地母神崇拝から発展したものと思われますが、しかし、大地神ではなく金星神とされ、再生産出の母性も喪失し、熱烈多情の妖女に変化してしまっています。この激情女神イナンナは、シュメールの西北のセム人においては、「イシュター」と呼ばれ、その熱情性か� ��か、戦争と恋愛の神として、広く信仰を集めました。その他、シュメール文化は、暦時法を成立させました。すなわち、それは、太陰(月)暦であり、月の満欠の二八日周期を四週七曜に区分し、一年を十二月とし、また、昼も十二時間・夜も十二時間とするものでした。
このイナンナは、図象においては、輪のついた二束の藁を持ち、豊饒の象徴である牡牛を台座にして描かれます。このことは、イナンナがもともとは豊饒祈願の地母神から発展してきたことを暗示していると言えるでしょう。
神話によれば、熱情女神イナンナは、植物男神ドゥムジを夫とし、天界に暮していましたが、姉の冥界神エレシュキガルが支配する世界を奪おうと、冥界に下ります。しかし、イナンナは、冥界では七つの門を通るごとに装飾や衣服をはぎ取られ、最後には生命まで奪い取られてしまいます。この後、イナンナは、地水神エンキが使わした使者によってどうにか冥界から一時釈放されたので、地上の夫のドゥムジに会いに行きますが、ドゥムジがすこしも悲しんでいなかったので、イナンナは激怒し、自分の代りに夫のドウムジを冥界に送ってしまいます。このため、今度はドゥムジの姉の葡萄神ゲシュティアンナが冥界のドゥムジを救いに行き、その後は、姉弟(夏の葡萄と冬の植物)が半年ずつ冥界に捕らわれることになったとさ� ��ます。
日光を求めて農耕民が昼に活動し、太陽を尊重するのに対し、熱暑を避けて遊牧民は夜に行動し、星月を尊重する傾向があります。イナンナが大地神から金星神となり、再生産出の母性を喪失したのも、太陽暦ではなく太陰暦を採用したのも、周辺の遊牧民の影響かもしれません。神話によれば、その後、熱情女神イナンナは、こんどは天空神アヌを夫とし、天界を支配するようになり、みずから金星として明方と夕方に二度も輝くとともに、他の神々も星々として天界のそれぞれの領域の管理を分担させた、とされます。
第二節 シュメール文明
シュメール市王国群
前二八〇〇年ころ、ふたたび大洪水がメソポタミアを襲い、メソポタミア文明を壊滅的な状況に追い込みます。しかし、この後、シュメール人の村落国家は集権的な都市国家として再生し、異民族に対する都市防衛と大洪水に対する運河保守のため、地域統一的支配を強化していき、市王が戦争や土木を指揮しました。こうして、古くからの中流南のウルク市王国のほか、上流のキシュ市王国・下流南のウル市王国・下流北のラガッシュ市王国などが台頭していきます。
当時、市王は、まだ確立されたものではなく、将軍とも祭師ともつかないものであり、まったく存在しないこともありました。しかし、その王墓においては、豪華な財宝とともに数十人も兵士や女官が盛装して殉死しているのが発見されており、市王とはいえ、市王国内では絶大な信奉を獲得していたと思われます。しかし、市王が権力を使って私腹を肥したり、また、クーデターによって政権を奪われたりするというようなこともあったようです。
これらの市王国において、その都市は、「ジッグラト(聖塔)」と呼ばれる巨大な基台の上に建立された都市の守護神の神殿を中心に、縦横の潅漑水路や荷船運河を張り巡らす大規模なものとなっていきました。また、市内は、複数の市区から構成され、それぞれの市区にも別個の守護神の神殿が存在し、全体の市王は、それぞれの市区の神殿の神官を通じて、都市を管理運営しました。また、中央神殿や市区神殿は、その内外に広場を持ち、ここにおいて多くの職人や商人が経済活動を行っていました。
シュメールの独立都市国家が市区に守護神を持っていたことは、都市に移住してきた人々が、その住所の守護神への信仰を中心に地縁的に再編されていったことを意味しています。このような開放性こそが、都市の活力となっていったのでしょう。
しかし、いずれの市王国も、シュメール全体を統一的に支配するほどの強大な権力は持ってはおらず、互いに戦争したり連合したりする不安定な状況が続きました。なかでも、前二七世紀のキシュ市王国王アッガとウルク市王国王ギルガメッシュの戦争は有名です。そして、この戦争に勝った王ギルガメッシュについては、その後、メソポタミアやアラビアにおいて、古代の英雄とされるようになり、伝説的な冒険物語が形成されていきました。
ヒトラーは最後に来たか
すなわち、伝説によれば、半神半人の王ギルガメッシュは、当初は暴君であり、ウルク市を改築するために人民を酷使したため、神々は野人エンキドゥを作って送り込みます。王はこのエンキドゥと戦いますが、やがて互いの力を認め合って両者はむしろ親友となり、力を合せて杉の森(現レバノン?)の怪物フワワ(クンババ)を倒します。その勇姿を見て、熱情女神イナンナ(イシュター)はこの王に求愛しますが、王が拒絶したため、女神は天牛を使ってウルク市を壊そうとします。王の親友エンキドゥがこの天牛を倒しますが、しかし、天牛を殺した罪で死んでしまいます。このため、王は、人生をはかなんで、不死の薬草を求める旅に出、ようやく大洪水を免れた唯一の不死の人間ウトナピシュティムに会い、不死の薬草の� ��りかを教わって、海底からこれを得ます。しかし、王は、これをヘビに取られてしまい、むなしく故郷に帰ります。そして、死が逃れられないと覚悟した王は、神々に願って亡き親友エンキドゥの霊魂を呼び戻し、冥界について聞き出しますが、それは陰鬱な所であると知り、悲しみます。
シュメール市王国群の宗教は、あいかわらず多神教でしたが、しだいに天空神アヌ、風気神エンリル、地水神エンキの三神が最高神となっていきました。中でも、風気神エンリルは、天地の間を支配するものとされ、人間に対する統治権力の付与者として、市国王たちの信仰を集め、また、内外における貿易商売の守護神として、一般人たちの信仰も集めていました。このため、前二六世紀半ば、ウル市王国王が中流北のニップールにこの風気神エンリルの神殿を建設し、この後、このニップールは、シュメール市王国群の中心的な宗教貿易都市として発展繁栄していきました。このほか、市国王たちにおいても、一般人たちにおいても、戦争と恋愛の熱情女神イナンナ=イシュターが、あいかわらず厚い信仰を集めていました。
古代オリエントの奴隷制
古代オリエントにおいては、自営の自由民が原則でしたが、経済や戦争や交通の発展の結果、債務者・敗北者・流浪者など、自営が認められない者も登場し、彼らは、国家や神殿や自由民の下で働くことになりました。しかし、古代では労働と生活が分離されておらず、したがって、その労働を購入することは、その生活を支配することを、さらには、その人格を所有することを意味したのであり、ここにおいて、被雇用者は、生活を支配され、人格を所有された者として、したがって、自由のない者として、「奴隷」と見なされました。
ただし、奴隷は、ただその主人に対してのみ奴隷であるにすぎず、社会的な身分差別はそれほどなく、個人的な財産権も持っていました。むしろ、自由民である官吏や兵士、また、一家における家長以外の家族も、あくまで国王や神官や家長に従属するものとして、奴隷と呼ばれないまでも、奴隷と同様に自由のない者でした。そして、場合によっては、王室や神殿の奴隷が、国王や神官の代理として、むしろ高圧的に一般民衆に接するということもありました。
このような奴隷は、「召し使い」や「奉公人」と呼ぶほうがふさわしいかもしれません。現代日本の仕事人間のサラリーマンは、それこそこの「奴隷」に相当してしまうことになります。逆に、我々が「奴隷」として想像する、物として人格を完全に否定されたいわゆる奴隷は、古代ギリシアの鉱山奴隷、古代ローマのオリーブ奴隷、近世中南米の砂糖奴隷、近代アメリカの綿花奴隷、等、むしろ歴史的にはかなり特異なものでしかありません。
奴隷は、奴隷になった理由によって種類が分けられます。第一の「債務奴隷」は、自由民が借金を労働で返済しなければならなくなった場合であり、債権者は債務奴隷を自分で使用することも、他人に転売することもありました。また、第二の「捕虜奴隷」は、国家が戦争によって他国の自由民を捕虜とした場合であり、国家は捕虜奴隷を国有のままで使用することも、武勲のあった兵士に報奨として下賜することも、また、他人に転売することもありました。また、第三の「自主奴隷」は、もとより個人の自営が困難な建設や軍事や紡織などの分業総合分野において人足や傭兵や職人がみずから国家や神殿や親方の奴隷となる場合であり、この場合、部族が成員を、または、自分で自分を売って報酬を得ることになります。自分で自� ��を奴隷として売るのは、苛酷な徴税を免れ、自己の財産を守るためであることもありました。その他、これらの奴隷の子として生まれた場合、「出生奴隷」となり、そのまま両親の主人に所有されました。
また、一般に奴隷には「終身奴隷」と「期間奴隷」とがありました。とくに債務奴隷や自主奴隷の場合、その債務や報酬に応じて期間が定められるのが通常であり、規定の期限の後には自由人の身分に戻ることができました。また、捕虜奴隷などの終身奴隷であっても、好意によって主人が自由の身分に解き放したり、蓄財によって自分で自由の身分を買い取ったりすることが可能でした。また、妻の女奴隷を妾として跡継を生ませることは日常的であり、自由人と奴隷の正式の結婚も少なくありませんでした。
シュメールとアッカド
やがて前二四世紀になると、ザケシ(c2400〜c2371 BC)が、ラゲシュ市王国を破壊掠奪し、続いて、ウルク市王国ほか、中流の市王国を征服統一していき、「シュメール王」を名のるに至りました。しかし、この政局の激動に、キシュ市王国王に仕えていたセム系「アッカド人」のシャルキーン(サルゴン)一世(?〜即位2371〜16 BC)も、上流のキシュ市王国の政権を奪取し、ついで、中流の市王国群を支配するシュメール王ザケシを宗教貿易都市ニップールで殺害し、天地の間を支配する風気神エンリルから統治権力を付与されて「アッカド王国」(c2371〜2170 BC)を創設します。そして、彼は、さらに、下流の市王国群を次々と征服していき、ついには、「上の海(地中海)」から「下の海(ペルシャ湾)」までの全メソポタミアを統一します。彼はこの統一中央集権国家において、独立性の強い都市国家の共通性を高め、貿易や技術の交流を飛躍的に増しました。
シャルキーン一世の出身地であり、アッカド王国の首都となったアッカド(アガデ)は、港湾都市だったようですが、その場所はいまだに発見されてはいません。しかし、このような中央集権体制において、首都アッカドは、メソポタミア周辺諸都市からの朝貢を集め、経済的にたいへんな繁栄を享受したと伝えられています。
このように、アッカド王国は、西のセム人と東のシュメール人とを統一するものでしたが、北のトルコ〜イラン高山帯にグティ人が台頭し、内憂外患の状態となりました。すなわち、高慢で先進的なシュメール人は、この荒野出身のセム人王朝に従わず、また、野蛮で後進的なグティ人は、この繁栄するアッカド王国を襲ったからです。そして、前二一七〇年、ついに、アッカド王国は、グティ人の掠奪的侵入によって崩壊し、上流はグティ人が支配することとなります。一方、中下流は、こうしてセム人の支配から離脱し、中流南のウルク市王国・下流南のウル市王国・下流北のラガッシュ市王国、そして、中流北の宗教貿易都市ニップールなどの個別の独立都市国家に回帰してしまいます。
この後、ウルク市王ウトゥヘーガルが、グティ人を制圧してシュメールの統一を回復し、「シュメール王」となりますが、ウル市王ウルナンム(?〜即位2113〜2095 BC)が、この支配から離脱し、むしろしだいにシュメール全体に覇権を拡大していき、さらには西のアッカドをも征服して、「シュメールとアッカドの王」として、ようやく「シュメール王国」を確立します。ここにおいて、彼はこの広大な王国を統一的に支配するために、全域共通の『ウルナンム法典』を編纂し、また、官僚機構や軍事機構を充実させました。また、彼は、首都ウルにおいて、その都市神である月神ナンナルのためのジッグラトを高さ五〇メートルもの巨大なものに改築し、数十万の人口をかかえるほどに発展させました。このほか、彼は、諸都市に対し、彼の統治権力の根拠である風気神エンリルの神殿のある宗教貿易都市ニップールへの貢納を義務づけ、余力を残させないようにさせました。
ウルナンムは、メソポタミア中流のバビロン(バベル)市にも同規模の巨大なジッグラトを新設しようとしましたが、シュメール語・アッカド語などの多様な言語による命令の混乱のために、やがて中断されてしまったようです。このことが、後に聖書の「バベルの塔」の神話の原型となりました。その様子は、十六世紀のオランダの画家ブリューゲルが『バベルの搭』(c1554)に描いていますが、実際のバビロン市のジッグラトは、絵のような円柱ではなく、他のジッグラトと同様に台型であったと思われます。また、前六世紀前半のバビロニア新王国においても、バビロン市にジッグラトが再建されることになります。
第三節 オリエント諸民族の大移動
北方印欧族の南下とその影響
すでにかなり古代から銅や金などの自然の鉱物の採取が行われていましたが、しかし、これらの金属は、あくまで加工可能な「柔らかい石」として珍重されただけであり、他の宝石とともに呪術的装飾などに使用されるだけでした。前三千年紀になると、メソポタミアやエジプトで、銅の冶金、すなわち、火による還元・溶融・鍛造の技術が普及・発展し、装飾のほか、ようやく細工の必要な金具などの実用的な道具も製造されるようになっていきますが、この純銅も、石器よりも加工しやすいものの、道具としては硬度が不足していました。
前二千年紀になると、銅と錫、そして、燃料となる木材の豊富なイラン高原において合金の青銅(ブロンズ)が発明されました。この青銅は、硬度が充分であるうえに、研磨はもちろん鋳造や圧延などの加工にも優れ、皿や壷、斧や剣として徐々に普及していきます。もっとも、青銅は、あくまで貴重な高級品であり、一般にはあいかわらず石器や土器が使われ続けていました。
スフィンクスは何年に建てられた
青銅(ブロンズ)は、銅に一割程度の錫などを混ぜた合金ですが、その製造や加工には、両鉱石のほか、大量の燃料を必要とするという難点がありました。したがって、その生産は、当初は、これらの資材があるイラン高原か、これらの資材を交易によって揃えられるメソポタミアに限られ、エジプトでは、錫がなかったために、青銅に移行することなく、冶金技術だけが発展していきました。
黒海、カスピ海、アラル海、ハルバシ湖の北側のボルガ河流域〜カザフ草原周辺では、「印欧人」が、新石器(磨製石器)文化の遊牧生活をしていました。彼らはもともと民族的には大きく西方系(後の「ゲルマン人」)と東方系(後の「アーリア人」)とに分かれていましたが、前二千年紀から突然に諸部族に分裂し、それぞれの部族ごとに南下を始め、一馬一軸戦車を駆使して地中海、メソポタミア、インドへと侵略移動していきます。
印欧人は、人種的には白色皮膚などを特徴とするとされますが、現在の段階ではあくまでヨーロッパ・オリエント・インドの諸言語の共通性からその存在が推定されているにすぎず、具体的な遺跡などはまだ確認されおらず、なぜ彼らが突然に諸部族に分裂したのかも不明です。おそらく社会的変化から爆発的に人口が増大し、また、イラン高原から青銅製の武器が流入したために、民族内部の戦乱が激化し、農耕や交易を開始すべく、また、青銅の材料を調達すべく、繁栄する地中海・オリエント・インドへ南下したのではないかと思われます。また、当時、彼らが南下した地中海・オリエント・インドにはまだロバしか普及しておらず、彼らが家畜としていた馬は、これらの地域に対して優位な機動戦闘力を生み出し、容易な� ��略制服をうながしました。
地中海では、エジプトなどの影響を受けて、クレタ島を中心にエーゲ海周辺各地で原住民の農耕海洋青銅器文明が繁栄していましたが、西方系印欧人の「アカイア人」や「イオニア人」が黒海西岸を南下して、小アジア沿岸やギリシア半島に徐々に侵入していきました。また、メソポタミアでは、西方系印欧人の一部族が、黒海東岸を南下して小アジア地方(現トルコ東部)に移動し、「ヒッタイト(ヘテ)王国」を建てます。また、同じころ、東方系印欧人の一部族も、黒海とカスピ海の間のコーカサス山脈を南下してアラム平原(現シリア)に移動し、この地にあったマリ王国を侵略し、また、周辺のセム人遊牧民(「フルリ人」)を支配して、「ミタンニ(ホリ)王国」を建てます。しかし、この支配を嫌うセム人遊牧民は、東� ��のアッカド地方や西南のカナン地方に逃亡し、それぞれ「アムル(アモリ)人」「ベニヤミン(ベンジャミン)人」と呼ばれるようになっていきました。
また、すでに前二〇〇六年、東の系統不明の「エラム人」がシュメール王国を滅ぼしてしまっていましたが、こんどはここに、ミタンニ王国の支配を嫌ってアッカド地方に移ってきたセム系アムル=カルデア人が、一八九四年、スムアブム(?〜即位1894〜81 BC)を王として、メソポタミア中流のバビロン市を中心に「バビロニア古王国」(1894〜…… BC)を建設し、その支配を下流のシュメール地方に拡大していきます。
この首都バビロン市では、都市神として、四つの目と四つの耳と火を吐く口を持つ嵐雷神マルドゥークが祭られていましたが、この都市神はそのままバビロニア古王国全体の守護神に高められ、一神教的色彩を濃くしていきます。とはいえ、戦争と恋愛の熱情女神イシュターも、人々から根強い信仰を集めており、首都バビロン市にはイシュター神殿が建てられ、神聖売春が行われていました。すなわち、国内の女性は、一生に一度はこの神殿に売春を献納しなければならないのであり、その報酬も神殿のものとされていました。また、そもそもセム人の神マルドゥークは、シュメール人の神エンリルから国王に統治権力を付与する権限を委譲されたとされたため、バビロニア古王国においても、シュメール人の神である風気神エンリ� ��、および、その神殿がある宗教貿易都市ニップールが保護されました。
バビロニアの神話『エヌマエリッシュ(天地無名時代)』によれば、太古、真水男神アプスーと塩水女神ティアマト、ラフムとラハム、天霊アンシャルと地霊キシャル、天空神アヌ、智恵神エア、嵐雷神マルドゥークが代々として生まれましたが、古い神々と若い神々と戦争になり、嵐雷神マルドゥークの活躍により若い神々が勝って世界を治めるようになった、とされます。これは、メソポタミアの歴史を神話的に反映したものでしょう。
神殿売春の習慣は、他の地方の他の神殿でもあったようであり、場所によっては職業的な娼婦や男娼もいたようです。しかし、当時からすれば、聖と性とは、その再生産出力の神秘として表裏一体のものだったのであり、両者を峻別しようとする発想の方が、その後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の影響の結果にすぎないのかもしれません。
また、バビロニア文化において、《天文学》が発達しました。というのも、バビロニアでは、これまでの多くの自然の神々が天界の星々として解され、[天界の星々である神々が担当する地上の自然事象を支配している]と思われるようになり、したがって、星々の位置と神々の相性との関係によって、「天変は地異を起こす」と考えられたからです。このために、国王は、専門技官に天文を研究させ、天変地異を事前に察知しようとしたのです。
「天文学」という名称そのものが、「占星術」との同一性の名残です。
バビロニア文化では、神々や動物が色あいや明るさなどの特徴から星々に、そして、さらに暦法によって日々に割り当てられました。すなわち、正義神シャマシュ(太陽)・友愛神シン(月)・戦争神ネルガル(火星)・智恵神ナブー(ネボ)(水星)・嵐雷神マルドゥーク(木星)・熱情女神イシュター(金星)・歴史神エヌルタ(土星)が、日月惑星や七曜に割り当てられました。このことからもわかるように、この天文学は、天の変化と地の異事とを相関的に比較する経験主義的なものではなく、星の位置と神の性格とを象徴的に解釈する神秘主義的なものであり、およそ学問的蓄積性のないものだったのです。たとえば、戦争神ネルガルの火星が逆行して有毒のサソリの蠍座に停滞することは、軍隊が敗退して苦難に陥入� ��ることを引き起こす、と考えられました。
さて、これらのオリエント諸民族の移動と建国によって、地中海を渡るエジプト経済文化圏とエーゲ海経済文化圏の交易のみならず、メソポタミア経済文化圏とエーゲ海経済文化圏とをつなぐ交易も進展していきます。そして、バビロニア古王国のバビロン市からマリ王国のハラン市を経て、ミタンニ王国とヒッタイト王国の小アジア(現トルコ)南岸沿いの陸路か地中海東岸からの海路でエーゲ海に至る交易路が確立し、しだいに繁栄するようになっていきました。
カナン都市国家の成立
バビロニア古王国において、第六代の王ハンムラピ(ハムラビ)(?〜即位1792〜50 BC)は、中流アッカド地方や下流シュメール地方に加えて、東のイラン高原のエラム人を撃退し、また、前一七五九年には、ミタンニ王国の侵略によってすでに弱体化していた西のアラム平原のマリ王国も征服し、「四界の王」としてメソポタミア全体を大統一します。そして、彼は、メソポタミア全体に道路や運河を建設して、国内の交通と交易を活発にしました。また、彼はこの大メソポタミアのために、シュメール法を継承したアッカド語の『ハンムラピ法典』を編纂し、「目には目を、歯には歯を」という応報原則を徹底しました。そして、彼は、このような法治主義者として、王国の守護神である嵐雷神マルドゥークのほか、正義をつかさどる太陽神シャマシュも尊重しました。
このころ、地中海を渡るエジプト文化経済圏とエーゲ海文化経済圏の交易、また、ミタンニ王国・ヒッタイト王国を通じるメソポタミア文化経済圏とエーゲ海文化経済圏の交易に加えて、メソポタミア経済文化圏とエジプト文化経済圏との直接交易が関心を集めるようになり、その交易路として、地中海東岸内陸部のカナン地方が注目されるようになっていきました。すなわち、この地は、北のガリラヤ湖(キレネト湖)から南の死海(塩海)へと流れるヨルダン川の両岸の肥沃な低地を中心として、その東西両側は高い山地に挟まれており、まさにメソポタミアとエジプトの廊下と言うべき地形となっていました。
ヨルダン川低地は、地形的には、紅海・アカバ湾の亀裂が深く内陸にまで入り込んだものであり、地中海と距離的には近接していますが、ヨルダン川西岸山岳地帯によって隔絶されています。ヨルダン川も、流れ出すガリラヤ湖からしてその水面が海抜マイナス二百メートル、流れ込む死海にいたっては、その水面は海抜マイナス四百メートルもあり、ヨルダン川はどこの海ともつながってはいません。そして、その終わりの死海は、塩分が非常に高く、結晶して塩の平原となっています。
カナン地方には、《バアル信仰》がありました。すなわち、[それぞれの土地には、それぞれの土地のエール(神霊)が、古来からのバアル(ぬし)として存在している]とされ、丘陵や大樹がそのバアル(ぬし)の宿っている聖所とされていました。そして、交易などでここを通過する人々は、その聖所で礼拝を行い、生贄を献げなければならないとされていました。
やがて、このカナン地方に、セム系遊牧民のベニヤミン人の一部が印欧系のミタンニ王国の支配を嫌ってアラム平原から南下し、「カナン人」として肥沃なヨルダン川低地などに多くの都市国家を建設していきました。ここにおいて、ベニヤミン人は、新たにそこに住み着く以上、その土地の古来からのバアル(ぬし)である土着エールに敬意を払い、崇拝を誓いました。というのは、土着エールの祭祀権こそが、その土地の領有権でもあったからです。
この時代の宗教は、個人単位のものではなく、都市単位・部族単位であったことに注意しなければなりません。
その後、カナン人は、農耕に従事するようになっていきます。これとともに、土着エールは、雨の恵みをもたらす〈雷雨神〉として共通化していき、「バアル」がこの雷雨神の固有名となっていきます。そして、さらにここにシュメール的な豊饒信仰(季節神の再生神話・男女神の結婚神話)が加わり、まず、バアルは冬の季節神とされて、夏の乾季と冬の雨季はこの雷雨神バアルの敗北と復活の神話として説明されるようになり、さらに、男の雷雨神バアルに対して、アッカド・バビロニアの地母神イシュターに由来する女の植物女神アシュタレトが登場し、[冬の雨季の雷雨と種子の混合によって、すなわち、雷雨神バアルと植物女神アシュタレトの性交によって、豊作がもらたされる]と考えられるようになりました。そして、� ��作祈願の祭礼では、雷雨神バアルと植物女神アシュタレトの円満な性交を祈願し、市民男女の性交が奉納されるようになりました。
乾燥するカナン地方で農耕を行うには、まず水が重要な条件となります。しかし、この時代にはまだ井戸がなく、このため、農耕が可能なのは、ヨルダン川低地に限られていました。したがって、すべての土着エルが雷雨神バアルとなってしまったわけではなく、非農業地域には、それぞれの土地の特徴的な土着エールが数多く残っていました。
植物女神アシュタレトは、アッカド・バビロニアの地母神イシュターと同じものです。しかし、「イシュター」が地母神であり、その夫の「タンムーズ」が植物神であったのに対し、「バアル」自体がすでに土地神であったために、その妻の「アシュタレト」のほうが逆に植物女神としての性格をも持つようになり、一本の常緑樹として拝まれることになりました。ただし、「アシェーラー(複数アシェリム)石柱」は、土地神バアルの男茎を意味するより古いものです。
カナン人の都市国家としては、ソドム市やゴモラ市が有名ですが、しかし、聖書によれば、これらの都市は、このような豊饒祈願の性的祭礼を行う背徳の町とされ、この罪のゆえに、後に神が「硫黄(石油?)の火」で焼いて滅ぼし、死海に沈め去ってしまったとされています。他の記録によっても、ソドム市が実在したことは確かのようですが、その遺跡等はいまだ発見されおらず、その消滅の原因も不明です。
しかし、印欧語族の南下やバビロニア古王国の膨張などでメソポタミアが急激に勢力過密となった結果、その後もメソポタミアのシュメール=アッカド人、アラム地方セム系遊牧民のべニヤミン=アムル人、北方印欧系のヒッタイト=ミタンニ人など、多様な人々も、父祖の地を離れ、流民として次々とこのエジプト交易に有望なカナン地方へと集って来ました。けれども、これらの遅れて到着した人々は、狭く限られた肥沃な低地にはもはや入り込むことができません。このため、彼らは周辺の不毛の荒野にあって、生活のためにやがてその血統に関係なく統合し、部族として寄せ集めの共同体を形成していきます。そして、これらの諸部族は、「ヘブライ(ヘブル、ハビル、イブリー)人」と呼ばれるようになっていきました。
「ヘブライ人」という名は、「(ユーフラテス)河を越えてきた人々」という意味とも言われますが、明確ではありません。彼らは、それぞれの部族の中にも多様な出身の人々を含んでいましたが、文化的にはいちおうセム系とされています。
ヘブライ人は、族長を中心として部族ごとに荒野で天幕を張って生活し、羊や牛などの家畜の遊牧のほか、素朴な工業や商業、また、都市国家の戦争や建設などにも雇用されて従事しました。そして、都市の農耕民が仕事や貢納をよこさない場合には、山賊として襲撃し掠奪することもあったようです。また、彼らは、これらの仕事のために、その後も多くの流民を取り込んだり、多くの奴隷を買い集めたりして、部族を拡大していきました。
ヘブライ人の生活は、その後のアラビアの「ベトウィン(砂漠民)」のようなものであったと考えてよいでしょう。ただし、カナン地方周辺は、たいらな砂漠ではなく、山の多い荒野であり、また、当時はまだラクダや馬ではなくロバに乗っていました。
カナン地方の宗教とヘブライ人アブラーハーム族
一方、不毛の荒野に入植したヘブライ人は、離合集散や奴隷売買によって数多くの遊牧部族を形成し、各地を通過するごとに、それぞれの土地の古来からのバアルである土着エールを礼拝しました。このようなヘブライ部族の中でも、シュメールのウル市からマリ王国のハラン市を経てカナン地方に至ったとされるアブラーハーム族は、エジプト交易で財産を獲得し、勢力を拡大していきます。くわえて、このころ、周辺諸国も、このエジプト交易に有望なカナン地方に勢力を拡大したため、カナン都市部族連合と戦争が起ってしまい、ここにおいて、アブラーハーム族が活躍してバビロニア軍を撃退します。そして、この後、アブラーハーム族は、神エール=シャッダイの祭祀権を確立したようです。
聖書における古代物語の登場人物は、部族の象徴であり、その親族関係は、部族関係の暗示であると考えられます。したがって、アブラーハーム族の族長アブラーハームも、実在の個人であったかどうか、よくわかりません。したがって、その時代も、かつてバビロニア古王国のハンムラピ王の頃と特定されていたこともありましたが、現在ではこの説は否定され、まったく不明です。一説には、十二世紀のモーシェ(モーゼ)と同時代、もしくは、それより後時代とさえされます。
そもそもアブラーハームの名は、かつてはアブラームであったとされ、「高祖」という程度の意味でしかありません。けれども、まさにその名にふさわしく、その後の聖書の民、すなわち、ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒において、いずれも、アブラーハームがその宗教の開祖とされることになりました。
聖書は、[ヤーウェーが唯一神である]ということを原則に編纂されていますので、モーシェによるヤーウェー教流入以前のアブラーハーム族の神エール=シャッダイについては、ヤーウェー教への強引な整合化があり、正確なことはよくわかりません。現代の日本の聖書でも、『セプタギンタ(七十人ギリシア語訳聖書)』に従って、「全能の神」と訳し変えて、エール=シャッダイの名は消し去ってしまっています。ただ、「シャドゥー」がバビロニア語で「山」を意味することからすれば、「エール=シャッダイ」は、まさに「山の神」ということになります。とすると、それは、「バアル」のような土着神や「イシュター」のような地母神の一種であったかもしれません。なぜなら、土着神や地母神は、その地方の中心的� ��大山そのものと考えられることも多かったからです。
神エール=シャッダイと同一のものとして、聖書にはカナン人のイェルゥシャーレーム(エルサレム)市王国の神エール=エルヨォン(最高神)が登場します。聖書に詳細は記されてはいませんが、カナン戦争における活躍によって、荒野のヘブライ人にすぎなかったアブラーハーム族も、カナン人の神を祭祀して定住することをカナン人から認められたのではないでしょうか。これは、たとえて言えば、流浪の外国人の一団が新興住宅地のはずれに取り残された古くからの神社の宮司になってしまったようなものでしょう。
そして、アブラーハーム族は、この神エール=シャッダイと、民族増大と土地領有について「カナン契約」を行います。すなわち、神エール=シャッダイは、アブラーハーム族に民族の増大と土地の領有を保証し、その〈しるし〉としてアブラーハーム族に一族男児の割礼を要求します。割礼とは、[男児の男茎の亀頭の包皮を切除する]ことですが、これは当時において古代エジプト周辺地方の当然の習慣であり、したがって、流民のアブラーハーム族がこの習慣を取り入れることは、彼らが真実にこの土地の民となることを意味したと思われます。こうして、アブラーハーム族は、神エール=シャッダイの民となったのであり、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福にしたがって、このカナンの地でひたすら子孫繁栄に� ��力しました。
土地領有はともかく、民族増大をアブラーハーム族が神に祈願したのは特異なことです。というのは、たしかにどこの民族でも穀物や家畜の豊饒多産を祈願しますが、しかし、民族自体の増大は、土地の生産性を越えて飢餓に陥ってしまうために、むしろ抑制しなければならなかったからです。これに対して、アブラーハーム族は、遊牧や工業や商業や戦争や建設や掠奪に従事するヘブライ人であり、一般の農耕民のように土地の生産性が制約とはならなかったのでしょう。しかし、このことは、アブラーハームの子孫とされるユダヤ人が、このような遊牧民的な民族増大の野望を持ち続ける以上、その後にキリスト教国などで土地の領有を禁じられるまでもなく、土地への定着が本質的に不可能であったことも意味しています。< /span>
聖書は、[アブラーハームの子はイスハーク、その子はヤァクォーブであった]としていますが、実際は、アブラーハーム族・イスハーク族・ヤァクォーブ族はそれぞれまったく独立の部族であったのであり、この親子関係の伝説は、その後の部族の盛衰に伴い、これらの部族の間で神エール=シャッダイ祭祀権とカナン定住権が継承されていったことを意味していると思われます。
そもそも、聖書は、この「族長時代」よりも八百年も後の紀元前前千年ごろのダーウィイド、シェローモー時代に編纂されたものであり、一般に、さまざまな部族の開祖をなんでもなんらかの親族関係にしてしまう傾向があります。しかし、これは、それらの部族の守護神を同一のものにして、その継承を正当化する巧妙な方法なのであり、また、神が唯一であることを間接的に証明しようとする目的を持ったものです。この意味で、聖書は、歴史であるかのような「族長物語」こそがむしろその本質的な神話となっており、また、そもそも神が唯一である以上、他の神話のような神々の物語は存在しえないのです。
聖書のような伝説的史書を史学的に読む場合、〈書かれている時代〉と〈書いている時代〉とを明確に区別することが必要です。というのは、〈書かれている時代〉の権威で〈書いている時代〉の問題に対する著者の意見を正統化しようとするということがしばしばあるからです。たとえば、[アブラーハームが息子イスハークをいけにえとして神に献げようとしたが、神が止めた]という話も、族長時代の歴史的な事件ではなく、聖書編纂時代にすらもまだ残存していた遊牧民的ないけにえの習慣を廃止させるために後から創作された物語と考えられます。
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